おやじぎゃぐ講座(特別講義・「寒さ」とは何か)

 おやじぎゃぐを心の支えとする皆様のご期待にお応えして、今回「特別講義」をご用意いたしました。 おやじぎゃぐを発する人がまわりにいる方は、「寒い」という言葉を毎回連呼されている方も多いことでしょう。しかし、なぜ寒いと感じるのか考えてみると、意外と説明がつかないものです。不思議ですよね。
 今回はおやじぎゃぐの世界をもう1歩深め、、応用篇の名にふさわしい、ある意味では核心と言える「寒さ」をテーマにお話ししていくこととします。 さん方は、おやじぎゃぐなんて作れないよなどと口ぐちに言います。しかし、最初はみなそうなのです。プロセスを踏んでいけば誰でも作れるようになるのです。いよいよここからはぎゃぐの作り方に入りますよ。さあ、一緒に学んでいくこととしましょう。

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「寒さ」の定義
 
 
寒さとは、「おやじぎゃぐを発した時に感じる、言葉として表現できない感情」をさし、これからお話していく上での前提条件とします。
 定義については諸説あるかもしれません。といいますのも、「寒さ」とは、手元の辞書によれば、
 
(1)寒いこと。また、その程度。[季]冬。
   「暑さ―も彼岸まで」
  (2)寒い時候。[季]冬。
   「―に向かう」

 だそうで、おやじぎゃぐの「寒さ」について公式の記載がないからです。したがって、おやじぎゃぐらー間でも意見に相違があるかもしれませんが、その点はご了承ください。。



 「寒さ」を感じる3つの理由

 まずは、次の2つの文をご覧ください。

・ふとんがとんだ
・ふとんがふっとんだ

 
 古典的な内容に、早くも寒さを感じている方もおられるかもしれません。しかし、上の文「ふとんがとんだ」を読んで、寒さを感じた方がおられるでしょうか?おそらくいないことでしょう。もしいたとするのなら、それはこのせいではなく、単に風邪をひいているのかもしれません・・・。

 話を戻して、今一度、読み返してみましょう。
 上の文と下の文では、わずか2文字「ふっ」があるかないかの違いだけです。
 つまり、この2文字が寒さをもたらす元凶と判断することが出来ます。

 これを、私たちは「おやじぎゃぐ効果」と呼んでいます。つまり、おやじぎゃぐを出された時に受ける感情は、実は私たちが普段使っている言葉を少しもじったものに対してだけ抱くことができるのです。これについては、中級編でも記していますので、改めて読み直してみてください。。

 では、なぜ2つの文に違いを感じるのでしょう。
 理由として考えられるのは、次の3つです。

1.話している人に原因がある
2.使われている言葉に原因がある
3.人間が持つ言語感覚として違和感を感じることに原因がある


 1つ目は、人間的要因です。

 すなわち、ふとんを見ながら今にも言いそうな、意図がみえみえの場合です。
 
 但し、この要因は単に場としてしらけてしまっているだけで、厳密な意味でここで言う「寒さ」とは違います。また、考えたくはありませんが、この人が嫌われているという場合も考えられます。家族に嫌われた、あるいは不倫がばれないように努力した結果、よからぬ方向へと空回りしたおとうさんなどの場合、特に要注意です。しかし、この場合においては、おやじぎゃぐうんぬんではなく、家庭環境の問題なのでこれも関係はありません。

 2つ目は、使われている言葉に問題があるのではないかということです。
 しかし、おやじぎゃぐはこの世に無数と存在します。こうしている間にも、全国各地で新しいおやじぎゃぐが作られては消えていっているのです。これだけつくられ、かつ身近な題材をテーマにしがちなこの分野において、使う言葉に原因があるとは考えられません。ですから、これも違います。

 3つ目は、言語的な感覚として、違和感や安堵感を与えるというものです。先述したように、もともとの単語をもじるような作り方をしていることに原因があると考えれば、この理由が最も理にかなっていると言えるでしょう。

 実は、ここにとある日本の文化との共通点があるのではないかと考えています。



 日本固有の文化から「寒さ」を考察する

  結論から言いましょう。それはズバリ俳句です。但し、俳句はおやじぎゃぐの対極、すなわち安堵感を与える方にいると考えます。
 
「俳句(安堵感・余韻)」⇔「おやじぎゃぐ(違和感・余韻)」
  
 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」、これを聞いて何か心が休まりませんか?
 しかし、何が理由かわかりませんよね?しいて言うならリズムだったり、日本人としての感性でかたづけられている部分も大きいと思います。
 実はおやじぎゃぐも同じなのです。違和感という形で意識されるため、俳句なら余韻で片付けられるものが、おやじぎゃぐの場合なんとも煮え切らないあきれともいえる感覚へと変化さ せてしまうのです。

 ここで私は新しい仮説をたてます!!

 おやじぎゃぐの寒さとは、「わび・さび」なのです。

 実は、この余韻は古文の教科書でチラッと出たときか、サザエさん一家が京都に出かけたとき波平がカツオやタラちゃんに語ることでしかなじみのなかった、あのわび・さびなのです。

 よって、俳句に余韻が残るのと同じように、おやじぎゃぐも納得して完結してはならないものなのです。「ああ、なるほど」などと理解できるようでは、単に話が面白いというだけで、わび・さびの世界は築けないのです。ですから、初級編での定義にもあるように、寒さを感じさせるものではなくてはならないのです。おなかが引きつるほど笑えるものは、「笑える」という目的を成し遂げられた段階で、おやじぎゃぐではないのですから。

 その証拠にわびさびのないといわれる諸外国では、おやじぎゃぐという言葉はありません。さきほど、Yahoo!USAで「Oyajigag」と検索しても出てきませんでしたから、本当です。これで、初級編で示された「アメリカン型」のぎゃぐが通じないのも納得がいきます。彼らは、おやじぎゃぐを楽しもう とする感性が、言語習得の段階で磨かれる場がなかったのです。


 いかがでしたか。今回の特別講義。新しいぎゃぐを作ろうと意欲を高めた方も多いのではないでしょうか。
 そして、これを読んだ今からはおやじぎゃぐを発して、「さむ~い」って言われたら、喜んでください。
 それは、あなたが「松尾芭蕉や小林一茶と同じ次元の人間である」と認定されたようなものなのですから。同時に、あなたは胸をはって生きていってください。私は人の心を動かすことのできるアーティストなのだと。

 そうすれば、あなたには輝かしい将来が待ち受けているはずです。

 今回はここまで。おあとがおさむいようで。